愛されていないあなたに

イエスキリストの愛を

良いことをしたら天国へ入れるか

良いことをしたからといって、天国へはいれるだろうか?

目の前のお年寄りに席を譲ったからといって、
物乞いに1万円を施したからといって、
泣いている人に優しくしたからといいって、
まして、
教会に何万円も献金したからといって、
教会の掃除を率先してしたからといって、
教会の運営のために役員として頑張ったからといって、
天国へ入れるだろうか?

否。
だって行いによって義とされないと聖書に書いてある。

ある意味やってもやらなくても関係ない。無駄です。
その行為に主が共に居てくださらないのであれば。



聖書では、
朝から一生懸命働いた労働者は、夕暮れになって雇われた人と賃金が同じだと言って主人に文句をいった。マタイ20
父と一緒にずっと忠実に働いてきた放蕩息子の兄は、放蕩して帰ってきた弟への父の歓待ぶりに納得がいかなかった。ルカ15

彼らは頑張ったのです。
彼らは肉によってきっとこう思ったに違いない。
「なんと理不尽な」と。

しかし、真のクリスチャンなら、
肉によってではなく霊によってこう言うだろう。
「ご主人(父)様のなさることは絶対です。褒むべきかな。私はあなたと共にいることで既に報酬は受け取っています。ともに祝いましょう」と。

出エジプト時代と新約時代

出エジプトしパロの支配から逃れる。執拗な追手は主によって滅ぼされる。↔︎イエス様の十字架を信じ罪、サタンの支配から逃れる。サタンの執拗な追手は主によって滅ぼされる。

荒野を彷徨い、神様によって与えられたマナを食べ、主によって生きるよう訓練される。↔︎現生、世の中にて日常生活を行うが、神様によって与えられたみ言葉を食べ、主によって生きるように訓練される。

40年かかって約束の地へ。↔︎ふさわしいイエス様の似姿へのゆっくりとかえられ天国へ。

新約聖書と旧約聖書

キリストを知り立ての頃、
新約聖書の言葉に渇いた心が潤った
イエス様の言葉、とくにヨハネの13、14章が好きで何度も何度も読んだ。

洗礼を受けるずっと前から
新約聖書は直接的で
心に響いた。
だって、
この理不尽な世の中で、
悲しんでいる人が幸いだとか、
敵を愛せだとか、
俗人の常識、意識をはるかに超えた
ものすごい言葉でしょう。

一方
旧約聖書はなかなか進みませんでした。
そこには
尊い綺麗な出来事、言葉だけではなく、
多くの罪や、
聖なる事柄とは感じえないことが多かったから。


しかし、いまは違います
旧約聖書を理解するとより深い意味で新約聖書を、イエス様を理解できる。

新約時代の雛形であり先例であり
そして罪とは何かを示している。
旧約聖書がなければ罪とは何かがわからない。
また雛形を辿ることで、
過去、現在、世界、そして未来の
真実がより深みを持って心に入ってくる。


祈りについて

祈りについて。

憂鬱、虚しさ、悲しみ、それは闇。
ふと気づくと闇に心が覆われ、
主から遠ざかってしまっている自分に気づく。

主とともにいるときは、必ず喜び平安が伴うものなのだろうか?
ほとんどyes、しかし喜びがないから主がともにおられないというわけではない。
イエス様もゲッセマネで悲しみに悶えておられた。
その後の祈りの後、天の父への従順、委ねる心穏やかな状態になられた。

私たちが主とともにいることを実感するために必要なこと、
それは祈り。
常にあなたに祈っていたい。目を覚ましていたい。

主側からは、いつどんな時もともにいてくださる。
主の救いは、一方的で、大きく、絶対的です。
私の心がウロウロしていても救いは既に完成しています。

あなたの愛に感謝致します。

試練の中にあって主に委ねること

試練の中にあって
主に全てを委ねられない自分を見つけ失望する。

主よ、どうしたらあなたの祝福のある人生を歩めるのでしょう?
どうしたらあなたに全てを委ねることができるのでしょう?
どうしたらあなたとともにいられるのでしょう?

私の自我が、肉が、私を支配し叫びます。
敵を恨み、周りを恨み、先の見えない暗闇、
それは大きな罪です。闇です。
私は一体どうしたらいいのでしょう?

私の自我は、肉は、あなたを信じて、聖霊バプテスマとともに、
十字架につけられたのではなかったですか?

聖霊様を待ち望みます。
そして激しく祈ります。

人生虚しい

虚しい。。。

虚しさは、生きる上で元気を失った状態。
もちろん、振られたとか、受験に失敗したとか、きっかけはあるかもしれない。
でも、お金も地位もあって、周囲から人生順調に見えても、救いようのない虚無感は襲ってくるものです。

人間は肉体だけで生きているのではありません。聖書には創造される時、同時に神様の息(霊)が吹き込まれたとかいてあります。

肉体が食べないと空腹になるように、
霊も食べないと虚無感を覚えます。
虚無感の行き着く先は死です。

あなたは、霊の飢餓状態を何で埋めようとするでしょうか?
恋愛?仕事?お金?ゲーム、ギャンブルなどの娯楽?
人生の目標?
でも、それらは本当に価値のあるものなのでしょうか?
また、永遠に続くものなのでしょうか?
虚しさの穴はますますひろがっていきます。本来、この世のもので埋めることはできません。

キリスト者は、霊的飢餓をを埋めるために
み言葉を食べます。
み言葉とは聖書の言葉です。


進化論

アメーバのような生物から、偶然が重なり進化して、爬虫類から哺乳類、そしてサル、ヒトへ、、、

私たちの存在は偶然の産物で、そこには何の意思もなくて。あったとしても弱肉強食という、何の愛もない冷たいもの言わず存在があるのみ。

私たちが産まれたのも、たまたまだろうか。産まれ、苦しみ、虚しく、それはなおかつ偶然で意味のないもの。
本当でしょうか?


でも聖書には書いてあります。一番初めに。
私たちは、神様に似せて神の意志で造られたと。
この世の誰も、もれることなく貴重な存在なのです。

しかし人間は堕落しました。
では、本来の、神に似せて造られた人間の姿とはなんでしょう?
それも聖書には書いてあります。
それはイエスキリストです。

私たちの存在する目的、人生の本当の目的は、イエスキリストの似姿となってこの世の光となることです。