愛されていないあなたに

イエスキリストの愛を

クリスチャンの大原則


あなたは主によって愛されている
ではありのままのあなたは尊いのだろうか
いや
私たちは全て汚く罪にまみれ醜い許され難い存在である
義人はこの世に一人もいないと聖書にも書いてあります

罪は本来決して許されない
そこには妥協はありません
何が罪であるのかは聖書に示されている
旧約聖書による律法により罪が明らかにされている
例えば同性愛は罪であると明確に書かれている
これらは神様の前に決して許されない
あなたのありのままといっても
罪人のまま救われるわけではない
罪人は本来
永遠の死へと引き込まれる
それを地獄とも呼ぶでしょう

そのようなどうしようもない罪人である私たちを
神様は一方的な愛によって
イエスキリストの十字架によって贖って下さった
罪とその結果としての死から解放して下さった
それが厳然たる揺るぎない現実です

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。 」(ローマ人への手紙 5:8,9)
「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」 (ローマ人への手紙 6:23)





私たち人間の本来の存在のなかには神様に義とされるものは全くないのです
人間愛、家族愛、ヒューマニズムにさえ。
これらは人間が主ですが、人間が主ではいけないのです。
主は唯一の神様
イエスキリスト

民主主義ではなく神主主義
自分に自信を持つのではなく
神様に信頼するのが本来の人間のあるべき姿です

救われるためには
必ず
悔い改めと
イエスキリストの十字架による新生が必要です
決して無条件ではないのです

主を受け入れ
自分の主座をイエスキリストに明け渡すことによって
私たちはよみがえります

新生したあとに
罪をおかしつづけて良いわけではありません
主とともに歩むことで私たちはかえられる

御霊の内在によって
私たちは少しずつかえられる
そして
醜い土の器から神様の栄光を表す器とされるのだ

「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。 」(ローマ人への手紙 6:11-14)

adiction

adictionとは、
何かにふけること、常用癖、専心


ちょっとした虚しさ、寂しさは
不意に人の心に襲ってくる
人の心はその隙間を埋めようと彷徨う

最初、それは、
ちょっと暇だなぁという感覚だけかもしれない
何か面白いことないかなぁという感覚だけだったかもしれない

それはあなたの魂の飢え乾き。
あなたはそれを何かで埋めようとする
それは麻薬のような薬物やアルコールとまで行かなくても、
ゲーム
仕事、恋愛、ギャンブル、ネット、なんでも買い込んでしまう買い物依存、性へののめり込みなど
身近にいっぱい存在する

それらによって
飢え渇きが即効的に、また劇的に癒されるような気持の高まりを与えてくれるかもしれない
だが、それらはやがて過ぎ去るものであり、
すると「もう一回」という気持になって
気づいてみると「やめられない。止まらない」という状態にまでなっている
それらが欲しいために、犯罪を犯すということになったり、金も家も家族も仕事も人間としての誇りも全てを失ってしまうという状況に追い込まれてしまう人もいるだろう

それらの根は罪であり、その結果は霊の死であるからだ


イエスキリストは言われた
「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 (ヨハネによる福音書 7:37)

魂の飢え乾きは清いもので満たされなけばならない。
そして、その結果は永遠の命です。
永遠の命とは肉体ではなく霊に関することで、それはたいへん素晴らしいものです



イエスキリストは、
人目を避けて井戸に水を汲みにきた"サマリアの女"にこう言った。
彼女は5回の結婚に失敗し、不倫関係にある男と同棲しており、男性依存症という形で破滅の人生を送っていた。
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 (ヨハネによる福音書 4:13)

まず最初に主の愛がある

主は
私が罪人であった時に
すでに深い愛を注いでくださっていた

信仰とは
その満ち溢れんばかりの
主の愛を確信すること

その信仰によって私たちは義とされる
他のものは何も必要とはされない

お金も家族も地位も名誉も周囲の人間関係も全てを失っても
仕事の致命的な失敗があっても
主の愛はそこに存在し
主の愛を信じることで
私たちはは義とされる

もう義とされているのだ
主の愛から私たちを引き離すものはなにもない
私たちがどのような状態にあろうとも
どのような精神状態にあろうとも
主の愛は、厳然たる事実としてここに存在します

教会へ行き始めた方へ

教会へ行き始めた方へ


教会に集う人たちは
心清らかな人達ではありません
「好い人」はむしろ教会の外に多く見受けるかもしれません

教会は罪深い人達の集まりです
実際に前科者が集う教会もあります
ただ世の人と違うのは
自分の罪を自覚し
それを贖って下さったイエスキリストの十字架にすがって行きているというところです

教会の中の「人」に望みを置くと
いずれそれは失望に変わるでしょう

粘り強く
神様に望みを置くことで
神様は必ずあなたに応えてくださいます
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 (マタイによる福音書 7:7 )

教会にいかずに信仰は保つことはできるでしょうか?
かつての私がそうでした
人付き合いの煩わしさ
仕事が忙しいのに
ようやく取れた休暇に教会なんて。。。
自分でも気付かないうちに主を離れ
世の良くない事柄にいつ間にか絡め取られていました

教会での正しい礼拝は
主が求めておられる重要なことです
また
教会での信仰を同じくした兄弟姉妹との交わりをとおして
主は信仰を高めてくださいます

何よりも
教会は聖霊のにあふれ
礼拝で心が洗われそして満たされます


神様の名義となった

神様との
日々の親しい交流が無くなったのが
全ての罪の根本

罪を持ち込んだアダムによって
神様との親しい関係は断絶され
以来人類は
罪とその結果である死の奴隷となってきた


イエスキリストの十字架により贖われ
罪を許され
清められたわれわれは
再び
神様との親しい交わりが許された

イエスキリストの十字架の血という
最も高価な代償でもって神様に買い取られた
われわれは今
神様の名義となった


無条件に

主はあなたを愛しておられます

あなたが優秀で強い人間だからではありません
人より外見が優れているからではありません
人を惹きつける何かがあるからではありません

ただ
全く何の条件もなしに
ありのままのあなたのことを愛しておられるのです

何もできずに無力感でいっぱいのあなたを
失敗続きで自分を責めてばかりいるあなたを
虚しさで自暴自棄になっているあなたを

この世の誰よりも
ずっと強くずっと深く
主はあなたを愛しておられます

あのみすぼらしく蔑まれていたザアカイをイエス様が見出したように


主は
この世の親のように
愛するがゆえに
あなたを物質的に満たそう
とはなさいません

主はあなたを愛するがゆえに
むしろ
あなたの心を砕くでしょう

それは
あなたにとって本当の幸せである天国へ
あなたの魂を導くために

人生は荒野

人生

この荒れ果てた荒野

どこへ進んでいいものかわからず
みすぼらしく一人立ち尽くす

かつて味わった
世の栄華も
世の希望も
そして夢見た平凡な世の幸せも
虚しい幻だった

もしかつて居た場所に戻れるとしても
もう戻るまい



主イエスは
この荒野の道であり
真理であり
命です

心砕かれてみすぼらしく小さくなった私は
狭い門をくぐり
あなたの狭い道を歩めるでしょうか

この真っ暗な荒野を
ただあなたを頼りに進みます

そうすればその先には
神様の真理を仰ぎ
天国に至り命得るでしょう

人生はつらいことばかり

ああ
人生はつらいことばかり

どうしてわたしだけ…

それでも生きなければならないの?

さびしい…
胸が締め付けられるくらい

虚しい…
心が虚ろになるくらい





あなたは神に愛されています
「幸福」な人の100倍 いや 1000倍
愛されています

神様は愛する子供に試練を与えます
身も心もボロボロになるまで。
自分にはもう
何も残ってはいないと心の底から実感するまで。

その時
あなたは体ひとつで
神の愛に迎えられるでしょう

体の芯から温められ
熱い涙を流すでしょう

そう
あなたは選ばれた人なのです

天国への道2

悔い改めてイエス様により頼むことが
天国へ至る道
救われる道


しかしイエス様により頼む
とはどういうことか

それは
み言葉を聞き
それに素直に従い実行する
そして祈ること

日々聖書に親しみ
それを素直に実行する
そして祈ること

イエス様と共に歩み
例えば「隣人を愛せよ」を素直に実行すること
そして祈ること


自分の力ではできなかったことが
聖霊の助けを得てできるようになる
そして
ふと気付いてみると
大きな大きな実を結んでいる

ああ神様は偉大なり
ハレルヤ

天国への道

救われるためにはどうしたらいいのでしょう?
とにかく苦しい。もがいています。いや、もがく気力すらありません。
私はどうしたらいいのでしょう?

仲良しさんに癒してもらうために教会へ行ってみますか。
聖書に書いてある、
隣人を愛せよ、汝の敵を愛せよ、を頑張っていきなり実行してみましょうか。
立派な「教え」ではないですか。
しかし人間の個人の我慢、忍耐でそれを行い得ても
いつか力尽きます。
だって人間なんてちっぽけな罪深い存在だもの。
自分や他人、どんなに優れていたとしても、「人」に望みをおけばそれは失望に終わります。



目的地に着くためには
そこへ至る道をまず歩まなければなりません。

まずは、自分の取り返しのつかない過去の罪、
そして罪深い性質を自覚し
「悔い改める」ことから全ては始まります。

その罪は重く深い。。。

洗礼者ヨハネは、イエス様、神様への道、天国への第一歩を説いた。
それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。 (ルカによる福音書 3:4)
「悔い改めよ」と。


取り返しのつかない罪。罪による苦しみ。戻らない過去。後悔。
私の持つ罪深い性質。現在進行形で、怠惰で前向きになれず、人を憎み愛せない。罪をおかしつつある現在。
人はその闇に恐れおののき絶望します。
しかし「悔い」て深みにはまるばかりでなかなか「改め」ません。

しかし時には
少し前向きになって
自分の力で「改め」ようとするかもしれません。
「新しい自分になってやる」と。
しかし実際の罪は
自分が考えている以上に重く深いのです。
それは一生良い働きをしても、命を差し出しても償えないほどの負債。

罪の大きさ深さを身にしみればしみるほど
自分の無力さを思い知ります。
事態が、自分の置かれれている状況が、自分の罪が、大きすぎて
もはや自分ではどうしようもないのが現実であると。いつか気づくでしょう。

イエス様は
このどうしようもなく大きい負債を
十字架で贖ってくださった。帳消しにした上、さらに恵みを与えて下さった。

悔い改めようとする時、
頼るべきはちっぽけな自分の力ではなくイエス様です。



救いに至る道
悔い改めてイエス様の十字架により頼むこと。
まずはそこから全てが始まる。

罪と報い

取り返しのつかない罪
起こってしまった罪

時間よ
お願いだから戻って
と言ってもどうしようもないもの

時間よ
お願いだから、、、


身に起こる不幸
それが偶発的なものでも苦しいが
それが自己の罪によるものであればもっと苦しい
後悔
後悔
あとは報いを受けるのを待つだけなのか


主よ
イエス様
父よ
あなたは十字架にて我が罪を赦し給えり
それにより天において裁きを受けず
しかし地においては報いがあるのでしょうか?
世では
坐して死を待つだけなのでしょうか?


その時
信仰は
報いを過ぎやるための
慰みに過ぎないのでしょうか?


その取り返しのつかない
大きな罪
それは苦しく
私には背負いきれない

こころの貧しい人

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 (マタイによる福音書 5:3 )


この有名で
そして哀れみに溢れた言葉は
また峻厳とした真実でもあります。


こころが貧しい人とは
プライドがずたずたになり立ち上がれない状態
この世の強烈な虚しさを悟り謙虚に生きざるをえない人
この世に何をも頼れず思いを馳せることもできない人
前にも後ろにも進めず右も左も暗闇の人
とてもさみしい思いをしている人
愛に飢えている人

逆に言えば
この世において心が豊かな人は
この世において満足している人は
天国には入れないということです
危機感を持ってください

この世にまつわる全てのことは
実は一番大切なことではありません

主は偉大な方ですので
この世のことは実はどうにでもなります
主がお許しになるのであれば、あなたは明日億万長者にでもなんでもなれるでしょう
それぐらい
この世のことは小さく一過性でまた虚しいものです


主はおっしゃっています
まず神の国と神の義を第一に求めよ

こころの貧しいあなたは
主に選ばれているのです
なんという幸いでしょう

罪とは

罪とは
盗みや人殺しなどの法的な違反のみではない
それらは単に罪の表現形であり端的な結果である

罪とはもっと人のずっと奥にあるもの

人をもやもやさせるもの
落ち込ませ
自己否認させ
怠惰にし
後ろ向きにさせる

時に妄想に近い恐怖を煽り
不安を駆り立てる
その不安は
周囲への不信と憎しみを産み傷つける


罪とは

質の悪い冗談
質の悪い嘲り
品の悪い笑い
そして冷酷な無関心

己をわきまえない高慢であり
自信であり
自尊心であり
主に従わない頑なな心である


それは
悪魔の常套手段であって
これを放置した場合、死に至る
周りに腐臭を放って
自らを肉的にしいては魂を永遠の死に追いやる

アダム以来
かつて人間は罪とその結果の死の奴隷であった
しかし
今は
イエスキリストの十字架により罪と死は葬られ
永遠の命に至る道が用意されている

命は
こみ上げる喜びであり
前向きであり
無償の愛を感じた時に身体に熱くこみ上げるもの

既に圧倒的にイエスキリストは勝利しており
あなたは心にお迎えするだけで良いのだ

大切なものはありますか?

今のあなたの生きがいはなんであろうか。
生きがいとまで言わなくても、
あなたの日常を構成している空気のような、
しかしその大切さを普段意識していないほど、
自然なものかもしれない。

友人、家族、恋人、子供
財産、家、地位、仕事、健康
楽しみな娯楽、ゲーム、パチンコ、酒、恋愛
あるいは
自分のことを認めてくれる周囲
これまでの自分
うまくやってきたという自信

これらは知らず知らずに心の中心に居座っていないだろうか?
このことを聖書では偶像崇拝という


偶像は
いつかは壊れます。
いつでも壊れます。
永遠ではありません。
絶対でもありません。

周囲に認められているあなた。
あなたが自分の中の、あるいは周りの持てるもの-美しさ、地位、良い性格、お金とか
を今失った時、
明日も周囲は同じようにあなたを扱ってくれるだろうか?

良くしてくれる人に出会いあなたは愛を感じたかもしれない。
しかしその行為には、相手のエゴの思惑は全くなかっただろうか?

全ては絶対でも永遠でもありません。


あなたがいかなる時も、どんな状態でも
深く愛していてくださる方がただ一人います。
その方は永遠で絶対。
今も昔もそしてこれからも
あなたを愛しておられる。

大きな悩みを抱えるあなたは、
幸いです。
あなたは今、救われようとしているから。
それはイエス様があなたの心をノックしておられるからです。
ただ扉を開いてお迎えしてください。

ラオデキヤの時代

いまはラオデキヤの時代だととあるクリスチャンのブログで読んだ。

私は部分的には賛成。


ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。 (ヨハネの黙示録 3:14-19)

熱くもなく冷たくもない
すなわち     ぬるい。
今の日本は、ネットやブログ、マスコミにテレビ、
人の噂や、芸能人がああ言ったこう言った、ラーメン食べ歩きだ、
悩みと言えば、彼や上司や姑の一言がもやもやとか。
教会だって、
組織を維持するのに汲々となってる。


途上国ではこの今、
歩けずして車道を物乞いのため這いずり回る人がいる現実がある。
伝道のため、全てを捨てて危険地帯に赴く伝道者がいる。

確かに今の日本はラオデキヤでしょう。
富んでいると薄々思っていても、内実は最も惨めで貧しい者。
しかし熱い人は日本以外にはいっぱいいる。

日本人が富む者となるためには、
火で精錬された金を買う、
すなわち大きな試練を通しその心を砕かれねばならないのだろう。