愛されていないあなたに

イエスキリストの愛を

人の義 神の義

罪人である私たち人間は
他人に責められた時
いろいろと理由を述べて自分の正しさを主張したくなる

罪人である私たちは自己の義を常に訴え
それを拠り所としている存在である

また、
自分がだいじな存在であることをアピールするために
着飾り
名誉を気にし
無視されたり軽んじられたりすると腹を立てたり落ち込んだりする

元来弱く愚かで罪深い人間の義は常にインチキくさく
幸運にも義が認められたとしても
他の人間に認められた義なんて所詮移ろいやすいものだ


一方
イエスキリストの十字架を信じる者は
すでに神の義を得ている(Righteousness)

私たちがどれだけ罪深い存在であってもキリストの犠牲により
神様によって我々は正しいもの 価値のあるものとされた
それもキリストの十字架のみで価なしに

愚かな何をしているかわかっていない人間たちではなくて
全知全能の神様から正しいとされるなんて
なんという喜びでしょう 安心感でしょう

そして
それは揺るぎなく永遠に変わることのない事実である
太古の昔からの神様の計画であり 約束である
それはなんと確かで間違いのないことでしょう

イエスキリストの十字架を信じる者は
神の義を心の拠り所に生きているため
自分の義を重んじない
自分の義を気にしない
自分の義を主張する必要がない

かわることのない神の義を確信するので
神様に愛されていることを日々実感し
生ける水が永遠に心の中から流れ出す