愛されていないあなたに

イエスキリストの愛を

主のみこころ 人の思い

時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 (創世記 12:1 )

約束の地カナンへ導かれた主のみことばにもかかわらず、
アブラムは
その地が飢饉であることを知るや否やエジプトへ下ってしまう。

彼は自分で思いを巡らしその決断を下したことだろう。
その判断は「人」の判断としては賢明であったかもしれない。
しかし
それは主のみこころだったのだろうか?
その決断に主は共におられたのだろうか?



その結末は、
異国エジプトでの寄留生活の末
妻が美しい故に自分の身の危険への恐れから妹と偽り、
エジプトの王パロに召し入れられてしまう。

人の思い、考えのなんと浅いことであろう
自分で正しいと思っていても
間違いに間違いが重なり少しづつ道がそれて行く
そこには主はおらず
結果、恐怖で道を誤ってしまう

この後
主により
パロの家に激しい疫病をもたらされることにより
サライを救い出されたのだが
主による介入がなければ大きく道を誤ったことだろう

主とともにあることが
人生の道程において
何と大切なことだろうか